東国三社と言われるのが香取神宮、鹿島神宮、息栖(いきす)神社であり、そのうち創建時に神宮と呼ばれたのは、香取、鹿島、伊勢の三つであります
(「神宮」の呼称『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮」と表記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみであった)ウキペディアより引用
古代祭祀を取り仕切っていたのは、「斎部氏(いんべ)」「多氏(おおし)」であり、
中臣氏(藤原氏)ともに朝廷の祭祀を司っていました
また、日月神示が降ろされた麻賀多神社も多氏による創建であります
ところが、藤原氏(中臣氏)の勢力が増し専横が目立つようになってきました
それに対抗したのが忌部氏(斎部氏いんべ)であったのですが、中臣氏に占有されてしまい勢力を盛り返すことは出来ませんでした。
鹿島、香取神宮が創建される前は、大生(おおう)神社、大戸(おおと)神社があり
藤原氏が関東の霊的防備として建立しました
大生神社が鹿島神宮であり、大戸神社が香取神宮の元であるとも言われています
以下ウキペディアより引用
大生神社
祭神[編集]
歴史[編集]
創建[編集]
社伝では、飯富族(オフ:多氏)の大和から常陸への移住の際、氏神として祀られたといわれる[2]。境内周辺には大生古墳群も残っており、オフ一族の奥津城(墓)とされている。
当社の創建年代には、大別して次の2説がある[3]。
以上2説から、春日社の創建に関して鹿島神宮が性格を変え、その変化に当社が関与したものと見られている[5]。そのため、当社には「鹿島の本宮」[2]・「元鹿島の宮」[5]という呼称もある。
大戸神社
祭神[編集]
一説として経津主神(香取神宮祭神)の父母神である磐筒男神・磐筒女神とする伝えもある[2]。
歴史[編集]
創建[編集]
社伝によれば、景行天皇40年の日本武尊東征の際、蝦夷征伐祈願のために大戸の地に勧請したのが創建という[1]。その後数度の遷宮を経て、白雉元年(650年)に現在地に社殿が造営されたと伝わる。
概史[編集]
古来より香取神宮と関係の深い神社であり、当社の神主職・社領は神宮の大禰宜大中臣氏により相伝されていた[3]。天正年間(1573年-1592年)の古文書によると、当社には単独に神主・大禰宜等の神官組織があったと考えられる[3]
忌部氏について
氏族名の「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である。古代日本には各地に部民としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。
中央氏族としての忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とする。現在の奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。「延喜式」にある祝詞には「御殿(おほとの)御門(みかど)等の祭には齋部氏の祝詞を申せ、 以外の諸の祭には、 中臣氏の祝詞を申せ」とあり、現在の中臣祭文とは別格であったことが伺える。
しかしながら、奈良時代頃から勢力を増長した中臣氏に地位は押されぎみとなり、固有の職掌にも就けない事態が増加していた。平安時代前期には、氏を忌部から「斎部」と改めたのち、斎部広成により『古語拾遺』が著された。しかし勢いを大きく盛り返すことはなく、祭祀氏族の座は中臣氏・大中臣氏に占有された。
部民としての忌部には、朝廷に属する公務員である品部(ともべ /しなべ=公的な職業集団)と、忌部氏の私有民である部曲(かきべ)の2種類が存在していた。事績が少なくなっていった中央氏族の齋部とは異なり、品部である各地の忌部には、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあった。それらの品部の部民も後に忌部氏を名乗ったことが文献に見られている。こうした地方氏族は随所に跡を残している。
引用終わり
そして、藤原氏が関東の伊勢として建立整備したのが、鹿島、香取だったのはないか?
伊勢の三宮(外宮、内宮、伊雑宮)との共通点
レイライン:外宮、内宮、伊雑宮を結ぶ線が一直線上に並んでいます
外宮について…ご祭神であられる豊受大神(止由気皇大神(トユケ))御饌都(ミケツ)天照大御神のお食事を司るだけではなく、衣食住もみており、産業の神様でもあると言われています
(以下ウキペディアより引用)
歴史[編集]
外宮の鎮座の由来について、『古事記』・『日本書紀』の両書には記載がない[7]。804年(延暦23年)に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ[7]、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託した。『止由気宮儀式帳』にはそれが何年のことであるという記述はないが、『大神宮諸雑事記』の第一「雄略天皇」の条に「即位廿一年丁巳」、すなわち雄略天皇21年とある[8]。この神託を受け雄略天皇22年7月7日 (旧暦)、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大御神を迎えて祀った[8]。外宮の鎮座は内宮の鎮座から484年後のことであるという記述があるが、天皇の在位期間を機械的に西暦に当てはめて計算すると[9]、その年数が一致しない[8]。延喜式神名帳には「度会宮 四座」と記載され、大社に列している。
代々度会氏が神職として奉職したが、中世には度会家行が、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であり、外宮は内宮よりも立場が上であるとする伊勢神道(度会神道)を唱えた。また、門前町として山田が形成された。
伊雑宮が奥宮であることが先代旧事本記大成経に出ています
先代旧事本紀大成経事件[編集]
1679年(延宝7年)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本)[3]と呼ばれる書物が発見したとされた[4]。この大成経の内容が公開されると大きな話題となり、学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。しかし、大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、伊雑宮が日神を祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるようなものであることがわかり、内宮・外宮の神職がこの書の内容について幕府に詮議を求めた。
1681年(天和元年)、幕府は大成経を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ神道家・永野采女と僧 ・潮音道海[5]、偽作を依頼したとされた伊雑宮の神職らを処罰した。後に大成経を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止された。しかし、幕府の目を掻い潜って大成経は出回り続け、垂加神道などに影響を与えている。(ウキペディアより引用)
麻賀多神社の由来となった勾玉大神
社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。
延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。(ウキペディアより引用)
鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神の佩刀は韴霊剣と古来より伝わります。
鹿島、香取、麻賀多には、三種の神器(神剣、鏡、勾玉)揃っています
裏伊勢と呼んでもいいのではないかと思われます
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