男の子は、寝っ転がって空を見上げていた
青空に浮かぶ雲の形を あれこれ 想像するのが好きだった
それだけ、自分の世界に入っていて、時間も忘れていた 男の子にとっては、当に至福の時間なのであった
やがて、幼稚園に通うようになると、男の子はよく泣かされて帰ってきた
お寺幼稚園だったので、親が心配して相談しに行った
やんちゃな子に虐められていることがわかり、父親は男の子に辛くあたった
これから、大人になって一人生きていくのに そんなやわな心では生きていけないと心配してのことだろう
男の子の居場所がなくなった 自信をなくし、親の顔色をみて、過ごすようになった
男の子は、少年になり、学校に通う
ある時、テストで良い点を取った 偶々である 親が喜んだ❣
親は学問で身を立てさそうと考えたようだ でも、少年は学問が好きなわけではなかった 偶々テストで好成績を取れただけである 数字に表れるから、少年にも少し自信がついた
それが、何時しか過信に変わり、自分はひょっとして天才じゃないかと 妄想した
少年は青年になった 大学入試に二度も失敗し、また、暗い青春を送っていた
二浪もして私立の二流大学に入ったが、自分が好きで入った学部ではないので、勉学にもスポーツにも身が入らず、うつうつとふぁふぁと毎日時が流れるままにまかせていた
そんなことだから、留年した さらに、暗い青春時代だ
でも、就職では世の中が助けてくれた 日本がバブル経済で浮かれていたのである
こんな僕でも、あちこち就職活動することもなく内定が決まった
超一流の誰もが知っている電機メーカーH社です ちょうど、新札が入れ替えの時期で、銀行のATMを設計、製造していたのです 新人が全く何の役にも立たなかったのですが、雑用は沢山在りました 僕はATMの心臓部と言われる電源の電気回路設計者の卵でした
銀行のATMは、複雑なシステムで電子回路からそれを動かすソフト設計、実際動作するマシン(機械部)が入り混じっていて、どこかが不具合があっても正常に動作しないのです
さらに、お金を扱うので、セキュリティーの問題もあり、何にしても大変な機械なわけで…
残業は月100時間超えは当たり前でした 今では考えられないブラックな会社でした
だから、たまの休みが取れても、心身ともに疲れているので、独身寮で壱日中寝てばかりです
その当時は、働いた分だけ、つまり残業代はすべて支払われました だから、基本給より残業代の方が多く、新人にしては高額なサラリーを頂いておりました
でも、偶々休みを取れても、彼女もいなく寮で一日過ごすので、貯金は貯まりました(笑)
それからがまた大変な目にあったのです。配属された部署の上司がたたき上げの人で、実践そのものの人でした 大学は出たけれど…いうやつで、基礎学力もなく毎日怒られ、プライドはガタガタです プライドだけはまだ、あったのですねぇ (笑)
そうこうしているうちに、数年が経ち、僕も一つの製品の設計担当者になりました 設計者というと指示できる立場だとお思いでしょうが、図面に向かっている時間は少なく、各部署の調整役といったところに多くの時間を割きます 設計が製品を作る源流、上流にいるので、設計者が指示しないと何事も動かないのです
僕は、図面に向かっていることや、試作実験をしていることは、さほど苦にはならなかったのですが、人との交渉ごとが苦手で、口下手であると思っていたので、無理難題を引き受けさせられることが度々あり、それがかなりの負担になりました
さらに、数年経つと部下も出来、部下の面倒を見ながら、自分の担当も熟さなくてはならない立場になって、ストレスがかなり溜まってしまいました
ストレスを吐き出せないまま溜め込んだため、鬱病になってしまいました
そんな状態で、仕事をしても上手くいくわけもなく、失敗続きでした
マジで自死を考えました
さらに、追い討ちをかける出来事が次々とやって来たのです
Part2に続く…
お読みくださり誠にありがとうございます