癒しの杜

美しい日本を取り戻す 随神の道 子供達に日本の素晴らしさを伝えます。

まとかなるヲウミの旅 第二日目

今回のヲウミの旅で訪れた史跡の地図を載せます

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高島にあるホツマの史跡

 

二日目8月23日は、岳山登坂磐座コースと竹生島クルーズコースに分かれて出発です

僕は、竹生島クルーズコースを選びました

絶好の天気に恵まれ、琵琶湖汽船(今津港発)に乗車して、30分弱のクルーズです

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竹生島が見えてきました


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風光明媚な所です


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国宝 都久夫須麻神社(つくぶすま)です

建物は伏見城の遺構と伝えられています

ご祭神…ウキペディアより引用

祭神について、滋賀県神社庁長浜市は当社の由緒書の記述に基づいて以下の3柱としている[13][14]。辞事典も記述のあるものは3柱としている[2][4]。一方で、当の都久夫須麻神社は、宇賀福神と龍神八大龍王)を別神として列し、4柱としている[15]

別名、竹生島大神(ちくぶしまのおおかみ)。宗像三女神のうちの一柱。
元来は日本古来のの神。神仏習合においては本地垂迹では弁才天に比定され、同神とされた。「日本三弁天」は全てこの・この天部のことである。
  • 宇賀福神(うがふくじん)
宇賀弁才天の別名。宇賀弁才天とは、出自不明の蛇神である宇賀神(ウカノカミ、うがじん)と習合する形で、中世日本において作為された、弁才天の一形態[16]である。

 

 
宝厳寺黒龍
寺の境内にあるが、建築様式は神道小祠で、前に鳥居が建つ。
産土神の一柱。別表記:浅井比咩命[1]、浅井姫命。
当社に関する最古の縁起である承平縁起はこの女神のみを祭神としており、竹生島縁起が形作られる初期から存在した唯一の神と考えられている[17]
その実は、八大龍王の一尊である黒龍(こくりゅう)[注 2]
黒龍堂前の鳥居の扁額によれば、黒龍大神と黒龍姫大神の二柱(■右の画像を参照のこと)。黒龍を祀る黒龍堂は、黒龍伝説にまつわる神木の脇、当社へ向かう途中の法厳寺境内にある[18][19]

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宗像三女伸

さて、ホツマツタヱとの関りですが、池田満著『ホツマ辞典』から見てみましょう

八代アマカミ・アマテルとハヤコとの間に三つ子の姉妹が生まれました

ハヤコは、アマテルカミの従姉妹に当たります ハヤコを召した時、アマテルカミはその夜、変わった夢をご覧になられました トツカ(十握)の剣が折れて三つになり、それを噛んでゆくとそれぞれがミタ(三尺)になりました はたして、後になって、ハヤコは三つ子の女の子をお産みになられました そこで、タを冠した名をつけて、タケコ、タキコ、タナコとしました 

 

母ハヤコとその姉モチコは共に罪に落ちます ハヤコはアマテルカミの弟のソサノヲに恋をします 所謂不倫です 姉のモチコは、アマテルカミの長男ホヒを産んだにも関わらず、お世継ぎがウチミヤ(正皇后)のホノコの皇子に取って代わられたのを恨んで、ウチミヤを殺そう、アマテルカミを殺そうと企てました

この罪が発覚して、モチコとハヤコ、そして三つ子の三姉妹も共に、ウサ(大分県宇佐市)に蟄居謹慎の処分になりました しかし、行状は改まらないのでウサからも追放されて放浪の身の上になりました 

イツモ(出雲)に流浪して来たハヤコは不満分子を集めて徒党を組みました

ハヤコの恋は凄まじさを増して、スサノヲが妻を迎えようとすると、その若い女性を次々に8人までも殺してしまいました これらの事件が強い引き金となって、全国的な叛乱のハタレ騒乱が起きました

一方、さすらって正しさと誤りとを知った三姉妹は、妙齢となって、それぞれ嫁ぐことになります

タケコ・・・縁が深かったからでもあろう、タケコは、ソサノヲの子のオオナムチ(クシキネ)に嫁ぎます そして、生まれた子が、クシヒコ(二代目オオモノヌシ)・タカコ(タカテルヒメ・コトの名人)・アチスキタカヒコネであります

やがて、タケコは亡くなって葬られたのが、琵琶湖湖中の北の小島の竹生島だったのです

竹生島は、もとはススキ(薄)の生えるススキシマと呼ばれていて、タケコを納めて、タケフシマと名が変わりました

今も、竹生島には延喜式内社の都久夫須麻神社が鎮座しています

引用終わり

このように、竹生島ホツマツタヱが繋がっています 実際、竹生島を見てきてとても美しい姿の島でした

また、タケコには、オキツシマヒメの名もあります

古事記にはスサノヲとの誓約(うけい)の話として記されていますが、全然違う話となっています

このホツマツタヱの話だと現代にも通用する、いつの時代も人の思いは変わらぬものだとまた、人の愚かさも実感できるのです

因みに、三姉妹は宗像三女伸とも呼ばれています

 

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龍神拝所・・・かわらけ投げができます びわ湖に向かって鳥居があってその鳥居の間をかわらけが通ると願いが叶うと言われています

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かわらけ投げの鳥居です

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観音堂(重文)
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国宝 唐門・・・両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施されています


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宝巖寺 本堂(弁才天堂)
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美味しいお水でした


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竹生島から今津港に戻り、昼食を摂り、湖底より縄文式土器が発掘され展示されている

葛籠尾崎(つづらおざき)湖底遺跡資料館を訪ねました


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縄文式土器の技術、デザインにはいつ見てもすごい‼️と唸ってしまいます

壺や甕の模様、形には意味があってその中に水や食物を入れて置くと腐敗しないという話を聞きました


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丸木舟も発見されました 現代のカヌーそっくりです ホツマではカモフネと呼ばれ鳥の鴨の姿をヒントに作られた舟で、縄文時代から日本人は舟を作って輸送手段としていたのであります
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資料を説明してくれた地元のおじさん。

琵琶湖の水も循環しない為、魚🐟も取れないとのこと、今では漁業を生業とする若者はいないそうです

 

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二日目最後の訪問地 酒波寺(さなみ)です

ここは、R161号を北に進むともう北陸敦賀なのです

京都へも続く道もあり、鯖街道とも呼ばれていて交通の要所です


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弘法大師


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ウビチニ・スビチニ、オオトノチ・オオトマエの時代…高島の名はササナミ・ヰノクチと呼ばれていました それが、今津にある酒波寺、井ノ口です

酒にまつわることで、ホツマツタヱミカサフミには以下のように書かれています

ささけはとこよ ゐのくちの すくなみかみの たけかふに
 すすめかもみお いるおみて みきつくりそめ すすめけり』
ホ2
『ささなみと なおたまふより なもささけ そのかみいまに ささけやまホ2
『これおみて はしめてつくり かれささけ やよいみかもて ここのくみ』ミ2


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桜の木が空洞化して根元に祠が祀られています


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行基桜とも呼ばれています

 

 僕が参加できなかった岳山、磐座探索コースの様子を案内人の武部さんが纏めてくださったのを引用します

 高島という地名は、ホツマツタヱ24アヤに登場する 

イタルタカシマ ササナミノ サクラモヨシト オリカサシ

やって来たのは、ニニキネ一行だった その高島で待っていたのが、サルタヒコ

オトタマカワノ シラスナニ ヒルネシテオル チマタカミ

このチマタカミとは、サルタヒコの事。オトタマカワは現在の小田川と比定されている

その場所は、嶽山の麓に鎮座する大炊神社(おおいじんじゃ)と思われる

また、嶽山の山服には、今も一木一草生えていない真っ白な砂の部分があり、その砂故に、オトタマカワノ シラスナだと思われます

 

ニニキネに同行しているウスメの質問に、サルタヒコは答えて言う

カミノミマコノ ミユキナス ウカワカリヤニ ミアエシテ アヒマツナカタ サルタヒコ

白髭神社の近くに鵜川という地名があるが、距離的には少し離れている

大炊神社の本殿の前には、二基の石の竈が据えられている 御饗(みあえ)に必要なのが竈で、神社名も示唆的。(竈を配置している神社が高島には多い また安曇川の北側には饗庭野(あえばの)という意味深な地名も残されている。)

ミマコヨロコヒ ウノハナモ マタカサシユク

と次世代を暗示する、卯花をニニキネは髪に挿す 続いてこのように書かれている

サルタシテ タケノイワクラ オシハナチ イツノチワキノ ミオノツチ ツムミカミヤマ イセキツク

ここではっきりと「タケノイワクラ」と出て来る イワクラは磐座のことで、タケは山を指す言葉だと考えられる 

中略

行ってみた すると素晴らしい磐座が沢山在った 今は石仏が安置されているが、元は楠木で造られた木造の十一面観音で、納めたのは藤原不比等だと伝えられている

ホツマツタヱに登場するサルタヒコは、特別な存在。その風貌ばかりでなく、ホツマツタヱの登場人物中最も長く登場し、最も長寿で、最も大柄。驚くことに母の胎内に16年もいたと記載されている これも最長 ただの道案内という存在ではない アマテルカミの信頼も厚く、アマテルカミの墓穴も掘り、神宝も預かっている サルタヒコは、ニニキネからミオノカミという称え名も与えられている 三尾神社が在る 元々和仁估安聡本のホツマツタヱ40アヤ全巻が保存されていたのも三尾神社

 

ニニキネと別れたサルタヒコは、伊勢に行く 伊勢志摩にはサルタヒコの旧跡が多い

ホツマツタヱ36アヤに登場するサルタヒコは興味深い

ヨキミヤトコロ サニアリト ワカコオヤレハ ヰススカワ フモヤヨロホノ サルタヒコ

サルタヒコはアマテルカミから預かった神宝をワカコに与え、

コレサツケ ナカタウマレノ ツチキミハ モトニカエラン モチカエリ ツケヨトテサル

ツチキミとはサルタヒコのことで、ナカタウマレノとあるように高島には永田と言う地名が在り、長田神社が鎮座している ・・・

引用終わり 

blog.livedoor.jp

まだまだ、サルタヒコに纏わるお話は続きます ご興味のある方は上記添付のブログをお読みくださいませ

 

僕は、伊勢に生まれ育ったので、サルタヒコに纏わる話は、大いに興味があり(伊勢の地にも猿田彦神社があります)また、巨石、磐座にも興味があり、何故縄文時代の古代にあんな大きくて重いものが運べたのか?謎です❣

次回があれば、体力をつけて山に登ってみたいです

 

あと、もう一日旅は続きますが、僕は野暮用があって今回、ココでお別れです

残念!!

 

この旅を企画立案して頂いた平岡先生、世話役人の重藤先生、この旅をスムーズに運ぶために何度も打ち合わせをし、ロケハン行ってくださった辻さん、武部さん、内藤さん カメラマンの加藤さん お疲れ様でした また、今回の旅に同行できた皆様方、

ありがとうございます 感謝いたします

 

この旅を通して、単なる縄文時代への古代ロマンに終わるのではなく、実際の日本の建国の地はヲウミにあったのではないかと思えてきたことです

日本の歴史は、途方もなく古く真実は深遠で本当のことはまだまだ分かりません

だからこそ、記紀の原書であるヲシテ文献を研究し、広め、日本人としてのアイデンティティーを取り戻し、多くの日本人に伝えていきたいのです

これが、日本が世界で生き残る道だと思っております

 

最後までお読みいただきありがとうございます