星田妙見宮の御祭神
本座…天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、高皇産霊大神(たかみむすび
のおおかみ)、神皇産霊大神(かみむすびのおおかみ)
仏教にては北辰妙見大菩薩
住所…大阪府交野市星田9-60-1
僕が星田妙見宮を知ったのは、イシキカイカク大学の部活動のなかで神社・お寺・スピリチュアル部というのがあって、そのメンバーのK君が大阪枚方市の近くで昔、隕石が落ちた所に神社があると聞いたのが最初でした。
それから、偶然か必然か分からないけど、雑誌『玉響8月号』を読んでいると中矢代表と長典男先生の対談記事が掲載されており、星田妙見宮の事が話題になっていました。
玉響から長先生のお話を一部引用します。
西暦536年に彗星が大阪のけいはんな学研都市付近に落ちたんです。
その場所には現在「星田妙見宮」という神社が建っていてその側と言えるかは微妙ですが、枚方という場所にその当時の都がありました。
その都が彗星の影響で、すべて吹き飛んでしまったそうです。
現在、そのあたりは大阪府の手で発掘調査が進められています。
その遺跡を発掘している方々の思いとしては、年代で言うとちょうど大化の改新の頃でしたので、もしかしたら奈良ではなくて、大阪で大化の改新をやったのではないかというものでした。
そこはもともと出雲系の都だったのですが、そこに彗星が落ちてすべて吹き飛んでしまった。今で言えば、東京に彗星が落ちてすべての政府機関が吹き飛んでしまったような状態であったように思われます。...
この記事が歴史好きの僕の興味を非常にそそり、これは行ってみなくていけない所だと機会を伺っていました。
で、丁度10月に倭塾関西が開催されるので、当日倭塾開催の前に行っておこうと出かけました。
JR大阪環状線京橋で乗り換え学研都市線 星田駅で降り、徒歩36分、てくてくと辺りの風景を見ながら妙見神社まで歩きました。
良い雰囲気を出しております。
鳥居をくぐると阿吽の像があり、サッと空気が変わるのを感じました。
歩いてきたのでうっすら汗ばんでいたのですが、すーっと涼しい風が通り汗が引いていきました。
こころの中で「いいね」を押しました。
人々の運命は、各自の生まれた時の星座によっても、また日々の星座の運行によっても影響されますが、その運命の星は北の空の中心に位置する北辰星に統率されるので、北辰星は人々の運命の司配神として信仰されました。
北辰に当たる星は、その時代によって少しづつ異なってまいります。
この北辰を妙見菩薩という御名によって信仰するのが妙見信仰であります。
星辰信仰は紀元前三千年頃の古代バビロニアに始まり、その後、バラモン教やヒンズー教を経て大乗仏教に入り、三~四世紀の魏、晋の時代に仏教としての妙見信仰が確立します。
朝鮮半島に伝わった妙見信仰は、韓民族の北斗七星信仰と習合し、推古五年(597年)に百済の琳聖太子阿佐によって、聖徳太子に伝えられました。聖徳太子は妙見様を朝廷の守護神として都の四方に祀られました。
平安時代中期からは、武士団の氏神的信仰として、室町時代からは一般大衆の守り神として広く人々に信仰を集め、妙見宮として全国各地に祀られました。
仏教としてお祀りされているにもかかわらず、神社形態でお祀りされている所も多くありました。それで明治維新の神仏分離令により多くの妙見宮が廃止されました。
しかし、当妙見宮は小松神社と称し、天之御名主大神として今日までその信仰が神仏混淆として連綿として受け継がれてきました。(由緒書より抜粋)
七曜の星とは、北斗七星の事であります。
漫画の説明もありました。
妙見宮の大岩は織女石と地元では呼ばれ、七夕伝説縁の地です。
こうしてみると、人は日頃はあまり感じませんが、宇宙のエネルギー、力を日々受けて生きているのが良く分かります。
愈々という感じです。
七夕伝説、天の川銀河をイメージしているのでしょうか。
おおっ、なんと急な階段!少しメゲソウになります。後ひと踏ん張りです。
登り切りました。街が一望できます。
お詣りを済まし、今度は下りです。
宮司さんに隕石が落ちた場所の事を聞いたところ、近くにあり、もう台風による通行止めも解除されたので行ってみることにしました。
落ちた隕石というのが、北斗七星と同じ方向から来たペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タットル彗星からの隕石であった と書いてあります。
彗星が日本の都の近くに落ちたなんて、凄い奇跡で、偶然で、一瞬にして都が吹き飛んでしまった事を想像すると恐ろしくもあります。
この事件をきっかけに、古代日本は大きく変わっていったのだと思います。
神社っていいですねぇ~ おしまい。
告知です。イシキカイカク大学第三期のチラシ出来ました。
ご興味のある方、ご覧ください。
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